2014年07月15日
子供たちの自尊感情の欠如は、どこから?

昨日の続き!
宇多津中学校図書館司書の大川さんの講演で、ボクが一番引っかかったワードはこれ、
「子供たちの自尊感情が低いんです...。」
昨日ボクが書いたことは、全てここに集約される。
そうなんです!現代の子供たちの自尊感情は、極めて低い様にボクも感じる。
親に愛されて育った実感がないのではないか?
望まれて、この世に生を受けた実感がないのではないか?
親にすら受容されてない、疎外感を感じながら育ってはいないだろうか?
ボクはそう危惧している!
交流会終了後、ボクは大川さんに声をかけさせていただいた。
「先程の講演で、『子供たちの自尊感情が低い。』とおっしゃっておられましたけど...。学校の教育現場で、やはりそう感じるんですか?ボクも感じてはいたんですけど...。」
「はい。」
「家庭の事情もあるかとは思いますが、乳幼児期にああいう扱いを受けて育てば、無理もないことだとボクは思います。視線を合わせずに生返事とか...。携帯などを操作しながらの”ながら子育て”とか...。」
ボク達大人は、手厚く育てるべき幼児期に放ったらかしにしがちで、むしろ放っておいてやって欲しい、思春期にヤケに手厚いサポートをしてしまってるんじゃないの?
幼児期の愛情不足を補う様に...。
「三つ子の魂百まで」、もう正直、今更手遅れだと思うんだけど...。
「不来方の
お城の草に寝転びて
空に吸はれし
十五の心」
石川啄木
思春期ってのはさ〜、自分自身で求めて、自分自身で探って、自分自身で懊悩して、自分自身で試行錯誤し、自分自身で壁にぶつかり、自分自身で掴む時期だよね?
それを大人が先回りして、「こういうものが必要だろうから...。」とか、「こういう風に悩むんだよね?だから、こんなサポートを...。」とか、正直要らなくない?
お仕着せは、むしろ自立を妨げるんじゃない?
”自分で手に入れた感”っていうかな?苦労して、”自分だけで成し遂げた感”というか?
そんな、カタルシスは必要だよね?
それを大人の手柄にするのは、ボクはズルいと思う!
いいじゃん!失敗しても...。
いいじゃん!壁にぶつかっても...。
どうせ大人になったら、自分自身で何とかしなきゃなんないんだよ!
上手くできようが、できまいが...。
今は学生ということで、その予行演習期間みたいなもの。
本番はまだ先だし、本当にどうにもならなかった時にサポートできる様に、親も先生もいる訳だよね?
どうにもなくなるまで、手を出さない育て方ってのも大事じゃない?
先に先に回って、”転ばぬ先の杖”を差し出し過ぎると、子供たちは失敗した経験から学ぶことができない!
そこからリカバリーする術を学習できない!
”親”っていう字は、木の上に立って見るって書くよね?
つまり、手を出さずに見守るってことさ!
もちろん、どうにもならなくなった時は、全力で、命がけでサポートする。
それが、”親”であり、人生の先輩としての大人の立場なのではないだろうか?
子供たちに”失敗の機会”、”葛藤の時間”を与えることこそ、大人の務めなのではないだろうか?
一人で生きて行ける様に育てることこそ、本当の意味の”育児”だと思う。
子供の遊び相手になってやることや、オムツ替えをすることだけが育児じゃ〜ない!
話が変わるけど、ボクは釣りをする人だけど、いろいろな釣り方がある中で、「穴釣り」って分野があるのだけど...。
テトラポッドや岩などの隙間にエサのついた針を落し込んで、根魚(穴の中に潜んでいがちな魚 例えば、カサゴ、メバル、アイナメなど)の目の前でエサを散らつかせる。
普通はそれらの魚が外に出て来るのを待って、穴の外側で釣るものなんだけど、もうね、直接目の前にエサを送り込んでしまう釣り方。
何かね...、それが浮かんだ...。
子供たちが穴から出て来るまで待てないっていうか...。
子供たちを、余計ずぼらにするっていうか...。
「君たちさ〜、自分で求めなよ!自分で探しなよ!大人たちの敷いたレール通りじゃ、つまらなくないかい?沢山の本から、自分自身で見つけ出した自分にとってのこの一冊!そういう本に出会った時の喜びは、誰かに薦められた本とは、一味も、二味も違うよ!もちろん、スカを食らう時だってあるさ...。でも、だからこそ苦労して手に入れた一冊の有難味が増すんじゃん!」
ああ、グズグスな文章になって来てるけど...。
ボクが何が言いたいのか、分かる?
よろず語り部 夢追人拝
追伸 今の学校の現場が、そんな”子供たちの失敗”を許す余裕もないのが、現状なのかも知れない!
今の、学校の現場は、中学校に限らず、小学校でも、幼稚園や保育所でも厳しい状態なのだろうと想像する。
でも...。
2014年07月15日
「図書館ボランティアネットワークかがわ」交流会の講演を聞いて、我思う...。

さあ、「図書館ボランティアネットワークかがわ」交流会の記事、再開です!
「ユープラザうたづ」の二階の会場に着くと、受付で「会場内での写真撮影は禁止です。」と言われた。
「ええ〜、そんなの言われたの初めてだよ!去年まで何も言われなかったのに...。」
そして、上の「さぬきの国 紙芝居サミット」企画宣伝グッズの掲示をお願いしたら...。
「各団体、配布用にA4サイズのチラシのみ展示可能です!」
の対応...。
「ああ〜、折角作ったのに...。残念!」
並べられたイスの最後列に席を取り、入口近くのテーブルに、封筒に入れた企画書のみを展示させていただく。
活動報告のアルバムを置くスペースはなかった...。
今回の講師は、地元、宇多津中学校の図書館司書、大川治美さん。
「それは1枚のポップから」〜宇多津中学校図書館活動実践報告〜というタイトルでの講演だった。
で...。
ここから書くことは、紙芝居と絵本の読み聞かせのおっさん、よろず語り部 夢追人としてではなく、中三、中二の娘を持つ、一父親の意見と感想とだということを宣言させていただきたい!
というも、ボクは彼女の講演を決して笑顔では聞けなかった...。
思春期の子育て真っ最中である、父親の立場を離れられなかったからだ...。
が故に、かなり否定的な意見を表明せざるを得ない!
でも、これは講師の方の活動を否定するものでも、中傷するものでもない!
「一人の父親が過剰反応しているだけ...。」と受け流していただいて結構だ。
しかしながら...。
「こんな受け取り方、こんな考え方もあるのだな。」という意味で、参考意見の一つにしていただけると幸いだ!
さて、宇多津中学校では、図書館司書として大川さんが就任してから三年間の間に、図書館の蔵書の貸し出し件数が倍々のうなぎ上りの増加を記録しておられるらしい!
まず、内装のレイアウトにかなり気を遣っておられる様で、校内の備品で捨てられるはずだったソファーを再利用し、また、おはなし会等にもよく使われるフロアマットのスペースを展開、そして、衝立て等の陰に一人用のイスもレイアウト、独りになりたい時もあるだろう、思春期のメンタリティに寄り添った形だ。
そして、「先生、まるで本屋さんみたいだね?」との感想を貰ったという、新刊を平積みする展示法。
そして、ある才能のある図書委員により始まった、生徒たち自身による、お薦めの本の紹介手書きポップ。
選書は、生徒たち、授業に蔵書を使う教科の先生方のリクエストを優先し、なるべくリアルタイムに新刊を購入・導入するべく、手続きを見直したという。
貸し出しも、「予約制」を導入して、生徒たちの「読みたい」という思いにレスポンスよく対応。
こう書くと、「いいことばかりじゃん!どこに否定的な意見を挟む余地があるのさ?」という声が上がるだろう...。
実際、講演会を聞いておられた、ほとんどの参加者(読み聞かせボランティアさん&図書館スタッフさん&学校司書さん)は、和やかに、笑顔で聞いておられたし、
「大川さんの様な司書さんが香川県内全ての学校に配置できたら、如何に生徒たちが本に興味を持ち、読書率が上がるか...。」
との賛辞が飛び交った。
ボクもそう思うし、一面喜ばしいことの様に感じた。
しかし、その反面...。
余りに手厚過ぎて、「そこまで、腫れ物と触る様に?そこまで、転ばぬ先の杖を用意し、外堀を埋めてやる必要があるの?」と、感じてしまったのも事実だ!
例えば、バレンタインデーの時期の前には、お菓子(特にチョコレート)の本のリクエストが多いので、多めの冊数を購入して準備。
親父としての意見 「そんなん、自分で買わせろ!もしくは、町の図書館の本棚を漁って来い!」
例えば、秋の合唱コンクールに合わせて「合唱のノウハウ本」を購入。引き合いが多ければ、各クラスに当たる様に冊数を増やす計画。
親父としての意見 「皆でシェアせんかい!同じ本、クラスに一冊ずつ要らんやろ?『兄弟で同じ物を買い与えないと、喧嘩するから...。』って論理か?」
例えば、「子供に満足に食事を作らなかったり、家事も疎かな家庭の子もいるので...。」と、「13才にもできる基本的な家事のハウトゥー本」を購入。
親父としての意見 「.......。」(苦笑)
例えば、「いじめとかの悩みもあると思うので...。」いじめや引きこもりを題材にして、”前向きな終り方”で描かれた小説などを購入。
親父としての意見 「..... 。」(涙)
例えば、「ストレスが多い年頃なので...。」癒し系な感じの漫画を購入。
親父としての意見 「だからって漫画じゃなくても...。」
例えば、「同じ中身の本でも、表紙がアニメっぽいイラストだと手に取り易いみたいで...。」
具体例 「魔女の宅急便」(角野栄子作)を、敢てイラスト表紙の文庫版を購入。
親父としての意見 「確かに貸し出し件数は増えるだろうけど、そこまでおもねらなくても...。」
例えば、「生徒間の目下のトラブルの原因である...。」SNS(ソーシャルネットワークサービス)関連の本を購入。
親父としての意見 「そりゃ、確かに必要だろうけど...。妊娠やエイズが怖いからって、学校でコンドームを配るやり方だな...。」(品の悪い例えで申し訳ない!)
例えば、「いろいろ家庭の事情があるので、両親揃ってて親子仲良しみたいな本は、誰彼には薦められない。」
親父としての意見 「結婚してない人の前では、結婚の話はNGみたいな?子供のいない人の前では、子供の話はできないみたいな?本当に腫れ物に触る様な気遣いだね?そこまで気遣われたら、却って、気まずくな〜い?」
まあ、いろいろ書いたけど...。
自分の思春期を考えてみて、当時の親や先生たちは、これ程までに腫れ物に触る様な気遣いで、ボク達に接していたろうか?
ボクは、ヤンキー全盛の時代に中学生だったんだけど...。
「ナメねこ」「マジソンバック」「ボンタン」「短ラン」(最早、長ランではなかった!)「剃りこみ」「学ランの裏地に刺繍」「裏ボタン」
ボクはどノーマルの学ランを着て、「先生の犬」と、ヤンキーから目をつけられる存在だったけど...。
当時のあいつらだって、それぞれ家庭の事情もあっただろうし、勉強ができないなどの劣等感とも戦っていたことだろう。
先生や社会は、彼らを気遣うどころか忌み嫌い、彼らの存在自体を否定してたけど...。
また、そのことに対する反発のエネルギーが、彼らを強くもし、また、「見返してやる!」という発奮の起爆剤にもなっていた様に思う。
事実、ヤンキー上がりで社会的に大成している人は少なくない!
話は戻るけど...。
正直ボクなら、ここまで先回りして杖を差し出され、「あなたのためを思って...。」的なことをされると、むしろうんざりする!
現代の思春期の子たちの受け取り方は、ボクら世代の感じ方と、最早180度違うのであろうか?
興味深いエピソードとして、
「ぱじ」(村上たかし作)集英社(コミック)についての紹介で、
両親に死なれた女の子が、おじいちゃんと住んでいて、親代わりのおじいちゃんと孫娘の生活を描いたコミック。
おじいちゃんがキティちゃんのアップリケ(刺繍だったかも)をするのだけど、当然上手くできなくて、とてもキティちゃんには見えない。
でも、孫娘は大喜びしておじいちゃんに...。
というシーンがあるらしい!
「◯年生の男子が、『先生、あのシーンいいですよね?』って、笑顔で言うんですよ!大人が読んでも本当に癒される、素敵なお話なんです!」
講演会を聞いていた皆は、思わず「いい話!」と笑顔がほころんだけど...。
ボクには笑えなかった...。
「中学校◯年生の男子が、女の先生(司書)に、素直にこんな一面を見せてしまうものか?今時の子は...。ボクら世代だったら、泣ける話に内心感動し、目に涙を溜めていたとしても、それを他人に悟られる様な真似はしなかったであろう。ましてや、女の先生相手に...。照れもあるけど、男の見栄で、『そんな本やかオレが読むかい!先生、オレは男やで!なんでそんな女が読む様な本を読まないかんの?情けない。』くらい言いかねないお年頃のはずなのに...。」
最近の子って、幼いんか?
それとも、逆に老成してるのか?
いかん!疲れて来た...。
老成してるのはボクか?
取り敢えず、今はここまで...。
続きは、まだまだあります。
中三、中二の娘の父ちゃん拝
追伸 ここまで好き勝手書いてるけど、これでも、司書の方に文句を言ってるつもりはないんです!
ジェネレーションギャップに戸惑ってるだけのこと...。
今、正に、思春期の娘たちと戦ってますので...。
皆、親子間でもここまで気遣って、毎日を送ってるの?
なら、ボクはかなり昔気質な父親をやってることになるな〜。
まっ、変える気もないけど...。
2014年07月10日
提言 「手厚過ぎる子育て支援が母親を甘やかし、堕落させてはいないか?」

なんともケンカ腰で、炎上しそうなタイトルだけど...。
まあ、読むだけ読んでみてよ!
先ずは、このリンク記事からどうぞ。
「よろず語り部 夢追人 恋愛語り」から 夢(夢追人)の対談 VS 平塚らいてう
http://ameblo.jp/yorozukataribe/entry-11104609187.html
「よろず語り部 夢追人 恋愛語り」より 夢(夢追人)の対談 VS 平塚らいてう その二
http://ameblo.jp/yorozukataribe/entry-11108275114.html
まあ、こういう考えを持っているおっさんがする提言な訳で...。
これは、どこの施設のことだとか、どの利用者のことだとか、そういうことは関係ない!
総じてそう感じる瞬間があり、ボクは常々疑問に思っているということである。
先に断っておくけれど、これは例えば、子育て関係のNPOの存在を否定するものであったり、そこで頑張っているスタッフさんたちを攻撃しようという主旨のものではない!
また、全ての利用者がそうだという訳でもない...。
「そんな母親もいるよね〜?」的に受け取っていただけるとありがたい。
さて、香川県内にも子育て支援関連の施設は沢山あり、いろいろな形でサポートが行われている。
子育て講座あり、おはなし会あり、ワークショップあり、遠足やBBQあり、ダンスやマッサージや、アロマやネイルや....。
本当、いたれり尽くせりだ!
それ自体にどうのこうの言うつもりはない!
核家族化した現代の家庭、見ず知らずの土地での子育て、子育て支援施設が孤独に陥りがちな母親の福音になっているのは確かだと思う。
同じ月齢の子を持つママ友ができ、孤独を感じなくなった。
同じ悩みを持つ同士で相談し合えるし、「自分だけが悩んでるんじゃないんだ!」って安心もできる。
先輩ママからのアドバイスも、大いに役に立つだろう!
いいことも一杯ある!
でも....。
何でもタダでサービスして貰って当たり前。
子育てしてるんだから、多少のことは周りに我慢して貰って当たり前。
タダのものなら必要以上に幾らでも自ら手を出し、品物やサービスを独り占めしようとはしてないか?
いつからこんなに「子育て」が、”特別偉いことをしてる”様な雰囲気で、免罪符、特権階級的扱いになったのだろう?
ボクも三児の父親だけど、今の母親たち(何割かの)の振る舞いを見ていると、正直
「お前何様のつもり?」
と思う瞬間がある!
「あのね、子育てなんて誰だってしてるんだよ!あんただけが偉いんじゃないし、あんただけが苦労してる訳じゃ〜ない!」
あなたの親も、またその親も....。
あそこの人も、ここの人も、昔の人々も....。
皆、み〜んな、父親、母親をやって来たんだよ!
「何だよ、その自分だけが苦労してます的な感じは...。『大変なんだから、周りに迷惑かけたって仕方がないでしょ!』みたいな振る舞いは!」
ボク自身、いろいろな子育て支援施設に出向いて、ボランティアで紙芝居や絵本の読み聞かせをしているけど...。
別にボクは、それに感謝して欲しいとか尊敬して欲しいとか、そういうことを言いたい訳じゃない!
そこでいる時に垣間見る、母子の距離感の問題なんだよ!
誰か面倒を看てくれる人がいると、完全に子供の世話を丸投げで、スマホをいじっていたり...。
我が子の方をちっとも振り向きもしないで、ファッション雑誌に見入っていたり...。
子供が喧嘩したり、他の子を傷つけたりしているのに気づきもせずに、井戸端会議してたり...。
もちろん、家に帰ると母子二人きりで、どこに行くにも子供がへばりついて来て、携帯も、読書も、トイレすら落ち着いてできないのを、ボクも知っている。
短い期間ではあったけど、ボクも身をもって体験した!
でも、子供の”放し飼い”はよくない!
*注 ”放し飼い”参考文献 「ガラスの檻の住人たち」:当ブログ「夢とも限定公開カテゴリー」にて一部公開(現在は一般公開中)
*注 「ガラスの檻の住人たち」=ボクが三女を子守りしていた時期、児童館で見た、母親の有り様が余りに目に余ったので、腹立ちまぎれに書き始めた育児エッセイ。
「絵本語り」オリジナルより、「夢とも限定公開カテゴリー」
http://yorozukataribe.blog41.fc2.com/blog-category-9.html
子育て支援施設は無料の託児所ではないし、ボクも、ボランティアで子守りに行っている訳じゃ〜ない!
毎日毎日いろいろな施設を渡り歩いて、子供をスタッフ任せにしている母親がいることを、ボクは知っている。
スタッフサイドもヘビーユーザーに対して、自分たちの利用実績に繋がってるから、無下には言えないのだけど...。
内心スタッフから迷惑に思わている母親、子供が可哀想だと思われている母親は、きっとどの施設にも存在することだろう!
例えば、読み聞かせボランティアの「おはなし会」を例にとると、
「おはなし会」を渡り歩いて、自分では我が子に絵本を読んであげない母親もいる。
「自分は下手だから...。皆さんに代行して貰ってます!」だって...。
ボクは前記事「夢追人の想う、「母親(父親)の膝の上でしか伝わらない聖域」で、母親(父親)との時間は蜜月であり、それは聖域であり何事にも代え難い、と書いたが...。
幾らボクが気を遣って遠慮したところで...。
そういう人は、誰かが肩代わりしたら、それで十分だと思ってるんだろうな。
「あなた(母親)の代わりは、誰にもできないんですよ!」
どんなに料理が下手でも、どんなに絵本を読むのが苦手でも、例え、いつも怒ってばかりでも...。
その子にとって、あなたは誰にも代え難いNo.1なのです!
そこは、是非、履き違えないでいただきたい!
もっと、自分の子育てに誇りとプライドを持って欲しい!
「イクメン、イクメン!」と騒いでいるけど、父親が育児に参加するのは当然のことだよ!
ちっとも、特別じゃない!
それに、子育て支援施設に子供を連れて来て、スタッフ任せでぼ〜っとしてるだけで「イクメン」扱いは、正直、如何なものかと思う!
子供が独り立ちできる様に、自分自身で生きて行ける様に育てて、初めて育児と言えるのだと思う!
育児は、”育自”!
子供を一人で行きて行ける様に育てるには、先ずは自分自身が自分を人として成長させて、大人にならなくては。
ボクら大人は、年齢は大人かも知れないけど、決して人間として成熟してる訳ではない!
子育てを顧みず、ファッションや、何となくの自己実現に夢中で、我が子とガチで向き合わないでいると、決して、人としての成長はないよ。
育てられてない子供は、いつまでたっても人間にならないし...。(「人としての躾をされていない子供は、まだ人間ではない」という考え方があるの知ってる?)
あなたのお子さん、そのまま身体だけが大きくなって、それで、一人で生きて行けるのかな?
子育ては誰でもしてることだけど...。
決して安易なことではないし、育てる親も自らを育てて...。
だから、苦しくって当たり前なんだよ。
楽しようとしなさんな!
よろず語り部 夢追人拝
2014年07月09日
夢追人の想う、「母親(父親)の膝の上でしか伝わらない聖域」
もうお気づきだとは思うけど、ボクが子供たちの前で読み聞かせる絵本には、かなり偏りがある!
今では、紙芝居のおっさんがメインになってるけど、ボクも最初は絵本の読み聞かせが始まりだった。
ブログ「よろず語り部 夢追人 絵本語り」は、そのタイトルを見ても分かる通り、紙芝居屋のブログではなく、元々絵本の読み聞かせのブログである。
段々と紙芝居に軸足が移って来たのだ。
もちろん、今でも絵本は読むし、ボク個人で買った絵本も少しはある。(子供たちの絵本を入れたら、結構な冊数になる)
「読み聞かせ請負人」として待機している時は、「これ読んで!」と持て来られた絵本を読むので、子供に絵本の選択権があるのだけど、ボクが子供たち(複数)の前で読み聞かせる絵本を選ぶ時には、決して踏み込まない”聖域”が存在する!
でも、これはボクの想う聖域であって、他の読み聞かせボランティアさん(主に女性)には、むしろ是非読んであげたい絵本のセレクトに入っているかも知れない...。
分かり易く具体的な例を出すと、
どい かやさん作・絵の「ハーニャの庭」とか...。
これは、ボクが勝手に想ってるだけなんだけど、ボクにとっての「母親の膝の上でしか伝わらない聖域」って奴だ!
ボクは、これを子供たち皆の前で読むことはない。
「ハーニャの庭」はハーニャ(猫)の暮らす家を定点観測的に描いた絵本で、季節の移ろいや、庭や、裏山に現れるいろいろな生き物との交流、飼い主の日常などを淡々と、しかし、繊細に、しっとりと表現している素敵な絵本だ。
うちのかみさんの大のお気に入りで、彼女作の「ちりとちりり」シリーズも何作かうちの本棚にはある。
ボクもチビを膝に乗せて、何度も何度も読んで来た絵本だ。
でも、ボクはこの作品を沢山の子供たちの前で読もうとは思わない!
あの絵柄の細かさ、物語の描き方の繊細さは、どうしても膝の上の距離感でないと伝わらない気がして...。
チビ(三女)が2歳半の頃、ボクは資格を取るために講座を受講していたかみさんに代わり、週に二・三日、一日8時間、子守りをしていた。
ほぼ毎回、当時住んでいた近隣の、東京都清瀬市の大型児童館に通っていた。
長女の時も、次女の時も、決して絵本を読んでいなくはなかったと思うが...。
ボクにとって、これ程絵本を集中的に読んだ時期はなかった気がする。
児童館の幼児部屋に入ると、チビはボク用に大きなクッションを引き摺って来てボクを座らせ、本棚からツバメの様に絵本を運んで来る。
1冊読んでまた次を、2冊読んでまた次を...。
本棚に置いてある10冊程の”その月のセレクト”を、ほぼ毎回、全作読まされる。(男の子が好きそうな戦隊ものの写真絵本は手に取らない)
一通り読むと満足してボクの膝から下り、おもちゃの方へ行って他の子供に混じって遊び始める。
たま〜にボクの方を振り返り、ボクが微笑み返すと、安心した様に遊びに戻って行く...。
そんな生活を、一年以上続けた!
膝の上にいる時、汗かきだったチビから立ち昇ってくる甘酸っぱい梅酢の様な匂い...。
懐かしくも、切なくなる思い出だ!
あの距離感、膝に伝わる温もり...。
同じ絵本を、同じ方向から見る。
読んでいる最中にチビが、気になった所に手を伸ばす。
「ああ、鹿さんがおるな...。」
「こっちにはお花が咲いてるよ!」
読むのを中断しながら相槌を打ち、時に顔を見合わせ...。
笑顔を交わす。
この光景がボクにとって、”読み聞かせ”の原風景だ!
「おはなし会」的に、皆を集めて読むのはあくまで二次的なもの。
ましてや、紙芝居のおっさんの実演は....。
今でこそ、ボクは絵本の読み聞かせをパフォーマンスとしてやっているけど、それと“膝の上”は、同じ絵本を読みはするけど、次元の違うものだと認識している。
あっ!後、子守唄代わりの枕元での絵本も...。
他に適切な言葉が浮かばないし、皆に分かり易く、この「読み聞かせ」って語彙を使っているけど、ボクは正直余り好きな言葉ではない!
「絵本の朗読」じゃ何だし...。
「絵本語り」は、他の人には通じないし...。
皆、「読み語り」とか、いろいろ新しい造語を生み出すけど...。
イマイチしっくり来ないね?
語彙は兎も角、母親(父親)と一対一の時間と、一人の読み聞かせボランティアと複数の子供たちの時間は、正直似て非なる物だとボクは思う!
前者は、やっぱり特別なんだよ!
幾ら、ボクたち読みき聞かせボランティアの技術が優れていたって、幾ら、選書に力を入れたって...。
親子の時間に勝るものはない!
ボクはそう思う。
もちろん、そんな聖域的な作品を皆の前で読んだっていいのだ!
まあ、ボクのキャラじゃないし...。
正直、ボクの声色、雰囲気と噛み合ないってだけのこと...。
女性で、優れた読み聞かせの演じ手であれば、例え、皆の前で読んでも、子供たち一人一人のこころに、”母”の存在を感じさせることが可能かも知れない...。
膝の上の気分を味わうことすら、可能かも知れない...。
残念ながら、ボクには無理だ...。
だから、ボクには手を出せない聖域がある!
いや!手を出せないのではなく、手を出さない、「出したくない!」結界なのだ...。
母子(父子)の蜜月のために、取って置きたい領域!
ボクはむやみに踏み込めない....。
大事にしたいところだ!
よろず語り部 夢追人拝
今では、紙芝居のおっさんがメインになってるけど、ボクも最初は絵本の読み聞かせが始まりだった。
ブログ「よろず語り部 夢追人 絵本語り」は、そのタイトルを見ても分かる通り、紙芝居屋のブログではなく、元々絵本の読み聞かせのブログである。
段々と紙芝居に軸足が移って来たのだ。
もちろん、今でも絵本は読むし、ボク個人で買った絵本も少しはある。(子供たちの絵本を入れたら、結構な冊数になる)
「読み聞かせ請負人」として待機している時は、「これ読んで!」と持て来られた絵本を読むので、子供に絵本の選択権があるのだけど、ボクが子供たち(複数)の前で読み聞かせる絵本を選ぶ時には、決して踏み込まない”聖域”が存在する!
でも、これはボクの想う聖域であって、他の読み聞かせボランティアさん(主に女性)には、むしろ是非読んであげたい絵本のセレクトに入っているかも知れない...。
分かり易く具体的な例を出すと、
どい かやさん作・絵の「ハーニャの庭」とか...。
これは、ボクが勝手に想ってるだけなんだけど、ボクにとっての「母親の膝の上でしか伝わらない聖域」って奴だ!
ボクは、これを子供たち皆の前で読むことはない。
「ハーニャの庭」はハーニャ(猫)の暮らす家を定点観測的に描いた絵本で、季節の移ろいや、庭や、裏山に現れるいろいろな生き物との交流、飼い主の日常などを淡々と、しかし、繊細に、しっとりと表現している素敵な絵本だ。
うちのかみさんの大のお気に入りで、彼女作の「ちりとちりり」シリーズも何作かうちの本棚にはある。
ボクもチビを膝に乗せて、何度も何度も読んで来た絵本だ。
でも、ボクはこの作品を沢山の子供たちの前で読もうとは思わない!
あの絵柄の細かさ、物語の描き方の繊細さは、どうしても膝の上の距離感でないと伝わらない気がして...。
チビ(三女)が2歳半の頃、ボクは資格を取るために講座を受講していたかみさんに代わり、週に二・三日、一日8時間、子守りをしていた。
ほぼ毎回、当時住んでいた近隣の、東京都清瀬市の大型児童館に通っていた。
長女の時も、次女の時も、決して絵本を読んでいなくはなかったと思うが...。
ボクにとって、これ程絵本を集中的に読んだ時期はなかった気がする。
児童館の幼児部屋に入ると、チビはボク用に大きなクッションを引き摺って来てボクを座らせ、本棚からツバメの様に絵本を運んで来る。
1冊読んでまた次を、2冊読んでまた次を...。
本棚に置いてある10冊程の”その月のセレクト”を、ほぼ毎回、全作読まされる。(男の子が好きそうな戦隊ものの写真絵本は手に取らない)
一通り読むと満足してボクの膝から下り、おもちゃの方へ行って他の子供に混じって遊び始める。
たま〜にボクの方を振り返り、ボクが微笑み返すと、安心した様に遊びに戻って行く...。
そんな生活を、一年以上続けた!
膝の上にいる時、汗かきだったチビから立ち昇ってくる甘酸っぱい梅酢の様な匂い...。
懐かしくも、切なくなる思い出だ!
あの距離感、膝に伝わる温もり...。
同じ絵本を、同じ方向から見る。
読んでいる最中にチビが、気になった所に手を伸ばす。
「ああ、鹿さんがおるな...。」
「こっちにはお花が咲いてるよ!」
読むのを中断しながら相槌を打ち、時に顔を見合わせ...。
笑顔を交わす。
この光景がボクにとって、”読み聞かせ”の原風景だ!
「おはなし会」的に、皆を集めて読むのはあくまで二次的なもの。
ましてや、紙芝居のおっさんの実演は....。
今でこそ、ボクは絵本の読み聞かせをパフォーマンスとしてやっているけど、それと“膝の上”は、同じ絵本を読みはするけど、次元の違うものだと認識している。
あっ!後、子守唄代わりの枕元での絵本も...。
他に適切な言葉が浮かばないし、皆に分かり易く、この「読み聞かせ」って語彙を使っているけど、ボクは正直余り好きな言葉ではない!
「絵本の朗読」じゃ何だし...。
「絵本語り」は、他の人には通じないし...。
皆、「読み語り」とか、いろいろ新しい造語を生み出すけど...。
イマイチしっくり来ないね?
語彙は兎も角、母親(父親)と一対一の時間と、一人の読み聞かせボランティアと複数の子供たちの時間は、正直似て非なる物だとボクは思う!
前者は、やっぱり特別なんだよ!
幾ら、ボクたち読みき聞かせボランティアの技術が優れていたって、幾ら、選書に力を入れたって...。
親子の時間に勝るものはない!
ボクはそう思う。
もちろん、そんな聖域的な作品を皆の前で読んだっていいのだ!
まあ、ボクのキャラじゃないし...。
正直、ボクの声色、雰囲気と噛み合ないってだけのこと...。
女性で、優れた読み聞かせの演じ手であれば、例え、皆の前で読んでも、子供たち一人一人のこころに、”母”の存在を感じさせることが可能かも知れない...。
膝の上の気分を味わうことすら、可能かも知れない...。
残念ながら、ボクには無理だ...。
だから、ボクには手を出せない聖域がある!
いや!手を出せないのではなく、手を出さない、「出したくない!」結界なのだ...。
母子(父子)の蜜月のために、取って置きたい領域!
ボクはむやみに踏み込めない....。
大事にしたいところだ!
よろず語り部 夢追人拝
2014年07月03日
ボクは選挙でまともに投票したことがない...
恥をしのんでカミングアウトするけど、ボクは今まで、まともに選挙の投票を行ったことがない!
いや、これでも最近は投票には行く様にしている。
最近までは見向きもしていなかったのだけど...。
でも、投票用紙には「誰を選んでいいか分かりません!個人や政党を選ぶのではなく、政策を選べる様にしてください。」と書き、所謂、無効票を投じている。
ボクの子供時代、日本は、特に田舎で農家が多い香川は、圧倒的な自民党の票田であった。
周りの大人の大半は、共産党や社会党に対しては拒否感を抱いていて、何も疑問もなくただ自民党の立候補者の名前を書いていたはずだ。
道端に貼られている選挙ポスターと、うるさくて堪らない選挙カーの大音量に辟易としながら、「何なんだろうこれ?こんなことに何の意味があるのか?」と、子供心にも思いながら大きくなった。
学校で同じクラスの子になら、ボクにも投票できる!
その子のある程度は知っているし、クラスの中でどんなポジションを占めているかを知っているからである。
でも...。
例え町議(当時は)でも、ボクは選べない!
選挙ポスターの顔しか知らない!
所属政党しか分からない!
所謂、”後援会”に行かないと、その人の考えが聞けない!
後援会に行った時点で、その候補者の後援者と見なされる。
その人を、その政党を、その政策を知り得る場がない!
そもそも、その政党の中にだって派閥があるし、右派と左派では、ハト派とタカ派では言ってることが違うのだ。
皆、何を基準に候補者を選び、何を根拠に政党を選んでいるのだろう?
ボクにはとても選べない!
そもそも政党というのは、本来は”政策政党”...。
国民、県民、市民に分かり易い形で、自分たちの政策をプレゼンできない人たちに、一体何の策があるというのか?
無策政党?無能政党?と言いたくなる!
そもそも、”数の論理”で烏合の衆の如く集まって◯◯党と名乗り、そのくせ一枚岩ではなく、てんでバラバラ好き勝手にそれぞれの考えを主張されても、こっちには何がなんだか分からない!
連立政権もまた然り。
基本的な政治姿勢が違うのに、「よく、その時だけ都合良く手を結べるな〜!」って...。
だから、ボクは誰を選んでいいか分からないし、どの政党を選んだらいいのか分からない!
皆が、自民党に愛想を尽かして民主党に乗り換えた時、ボクは他の人たちが何故そんなに、民主党に無邪気に期待を寄せられるのか理解不能だった。
だってあの人たち、かつては自民党にいて、そこを飛び出しただけの人たちじゃん!
元々、自民党員でしょ?
何も体質は変わらないし、根っこも変わらないよ!
だから、政権が民主党に替わった時に浮かれてた人が、やがて今度は民主党に愛想を尽かし、また自民党に戻った時、ボクは「それみたことか!」って思っただけだった。
自民党不審ではない、民主党不審でもない!
政治不信?いや、はっきり言ってもう人間不信だよ!
だから、選挙にまともに参加する気にはならないんだ。
だけど、もし人や政党を選ぶのではなく、政策や新しい試みを選ぶ選挙や国民投票的なものがあったなら...。
ボクは考えに考えて、自分の一票を入れるだろう!
原発廃止に賛成!(稼動停止ではなくて、完全撤廃)
消費税率10%に賛成!(ただし、当面はこれで据え置き。中途半端な倍率だと、計算が面倒だしおつりが細かい!)
老人介護福祉の行き過ぎに反対!(そこまで無理して、健康で長生きしなくてもいいんじゃない?死ねる自由も必要だよ!)
沖縄の基地移設に反対!
国内の全ての米軍基地撤収に賛成!
集団的自衛権に反対!
2020年東京五輪開催に反対!(原発あのままで、そんなことしてる場合か!)
まだまだあるけど...。
まあ、でもこの投票の遣り方で行くと、国民が自分に都合の悪い政策には、全く票を入れなくなるだろうけど...。
でもね...。
義務を放棄し、権利ばかりを主張しても、国政は、経済は立ち行かない!
我慢すべきことは我慢し、主張すべきことは主張する!
自分がではなく、皆がよりよい暮らしのできる様に...。
そういうことを考えて、頭と身体をフル稼働できる人が政治家になるべきだよ!
「利他の精神が最も大事。」
ボクはそう思うよ!
よろず語り部 夢追人拝
いや、これでも最近は投票には行く様にしている。
最近までは見向きもしていなかったのだけど...。
でも、投票用紙には「誰を選んでいいか分かりません!個人や政党を選ぶのではなく、政策を選べる様にしてください。」と書き、所謂、無効票を投じている。
ボクの子供時代、日本は、特に田舎で農家が多い香川は、圧倒的な自民党の票田であった。
周りの大人の大半は、共産党や社会党に対しては拒否感を抱いていて、何も疑問もなくただ自民党の立候補者の名前を書いていたはずだ。
道端に貼られている選挙ポスターと、うるさくて堪らない選挙カーの大音量に辟易としながら、「何なんだろうこれ?こんなことに何の意味があるのか?」と、子供心にも思いながら大きくなった。
学校で同じクラスの子になら、ボクにも投票できる!
その子のある程度は知っているし、クラスの中でどんなポジションを占めているかを知っているからである。
でも...。
例え町議(当時は)でも、ボクは選べない!
選挙ポスターの顔しか知らない!
所属政党しか分からない!
所謂、”後援会”に行かないと、その人の考えが聞けない!
後援会に行った時点で、その候補者の後援者と見なされる。
その人を、その政党を、その政策を知り得る場がない!
そもそも、その政党の中にだって派閥があるし、右派と左派では、ハト派とタカ派では言ってることが違うのだ。
皆、何を基準に候補者を選び、何を根拠に政党を選んでいるのだろう?
ボクにはとても選べない!
そもそも政党というのは、本来は”政策政党”...。
国民、県民、市民に分かり易い形で、自分たちの政策をプレゼンできない人たちに、一体何の策があるというのか?
無策政党?無能政党?と言いたくなる!
そもそも、”数の論理”で烏合の衆の如く集まって◯◯党と名乗り、そのくせ一枚岩ではなく、てんでバラバラ好き勝手にそれぞれの考えを主張されても、こっちには何がなんだか分からない!
連立政権もまた然り。
基本的な政治姿勢が違うのに、「よく、その時だけ都合良く手を結べるな〜!」って...。
だから、ボクは誰を選んでいいか分からないし、どの政党を選んだらいいのか分からない!
皆が、自民党に愛想を尽かして民主党に乗り換えた時、ボクは他の人たちが何故そんなに、民主党に無邪気に期待を寄せられるのか理解不能だった。
だってあの人たち、かつては自民党にいて、そこを飛び出しただけの人たちじゃん!
元々、自民党員でしょ?
何も体質は変わらないし、根っこも変わらないよ!
だから、政権が民主党に替わった時に浮かれてた人が、やがて今度は民主党に愛想を尽かし、また自民党に戻った時、ボクは「それみたことか!」って思っただけだった。
自民党不審ではない、民主党不審でもない!
政治不信?いや、はっきり言ってもう人間不信だよ!
だから、選挙にまともに参加する気にはならないんだ。
だけど、もし人や政党を選ぶのではなく、政策や新しい試みを選ぶ選挙や国民投票的なものがあったなら...。
ボクは考えに考えて、自分の一票を入れるだろう!
原発廃止に賛成!(稼動停止ではなくて、完全撤廃)
消費税率10%に賛成!(ただし、当面はこれで据え置き。中途半端な倍率だと、計算が面倒だしおつりが細かい!)
老人介護福祉の行き過ぎに反対!(そこまで無理して、健康で長生きしなくてもいいんじゃない?死ねる自由も必要だよ!)
沖縄の基地移設に反対!
国内の全ての米軍基地撤収に賛成!
集団的自衛権に反対!
2020年東京五輪開催に反対!(原発あのままで、そんなことしてる場合か!)
まだまだあるけど...。
まあ、でもこの投票の遣り方で行くと、国民が自分に都合の悪い政策には、全く票を入れなくなるだろうけど...。
でもね...。
義務を放棄し、権利ばかりを主張しても、国政は、経済は立ち行かない!
我慢すべきことは我慢し、主張すべきことは主張する!
自分がではなく、皆がよりよい暮らしのできる様に...。
そういうことを考えて、頭と身体をフル稼働できる人が政治家になるべきだよ!
「利他の精神が最も大事。」
ボクはそう思うよ!
よろず語り部 夢追人拝
2014年07月03日
「集団的自衛権」がどうのこうの言う前に...。

あんまり政治関連の記事を書く場ではないと弁えてはいるが、この際書かせて貰おう!
世の中「集団的自衛権」がどうのこうので揉めているけど、そもそも今の日本人に、人を殺してまで、自分が殺されて犠牲になってまで、国や家族を守る程の根性があるものかね〜?
東日本大震災を経験して尚、原発をなくせない国民がですよ!
自分の子供を守るどころか、虐待して殺しかねない国民がですよ!
自分の国のためじゃなく、他の国の戦争の助太刀をして死ぬ覚悟なんてある訳ないじゃん!
ボクは震災直後、福島の原発に国民の目が集まっていた時、当然、原発への依存を止めるのだと思っていた。
あの時国民投票をしたら、ほぼ100%くらいの人が「原発NO!」だったであろうと想像する。
ところが、日が経つにつれ皆あの時の危機感を忘れ、今の(物資的に)豊かな生活が犠牲になるくらいなら、便利な生活を手放すくらいなら、「やはり、原発しかないじゃん!」的な論調になってしまっている。
詳しくは覚えていないのだけど、震災後しばらくして福島県で取ったアンケートで、原発の再稼動賛成に60%程の数字が上がったのを見た時、正直ボクは日本を諦めた。
「一番放射線の危機に曝されている、最大の当事者であるはずの福島県人が、原発再稼動に賛成するのかよ?」
ボクには全く、この状態が理解できない!
「ただね...。ボクも最新鋭の火力発電所を新設するまで、原発の再稼動はやむなし!」と考えている。
だってね、動かしてなくても原発は現実そこにあり、地震や津波が来れば、例え臨界してなくてもヤバいでしょ!
ソーラ発電じゃ、発電量が全然足んないのよ!
今の生活を保つには...。
そもそも、日本中をソーラパネルだらけにする気か?
それって、ちっとも美しくないし、全くもってエコじゃない!
だから、一度生活スタイル自体を断捨離して、シンプルな生き方に変えるか...。
兎に角、さっさと最新鋭の効率のいい火力発電所を整備し直して、電力を安定させてから原発を解体!
「分かる?稼動停止ではなくて、解体!」
現在の火力発電所は、もう、かなり老朽化してるよ!
修理や、改造くらいじゃどうにもならない。
新しく作んなきゃ、始まらないだろう。
それには時間も、お金も、エネルギーも、マンパワーも必要!
それこそ、今からかからなきゃ間に合わないし、原発もいつまでたってもなくならない!
ただただ、再稼動に反対してりゃいいってもんじゃないんだよ!
今の生活、全部捨てる気があれば、そりゃーできるよ。
でも、デモをしながらスマホで動画録って、ネットで流してる様じゃ絶対無理。
それらを賄ってるのは全て、原発を作ることで得たエネルギーと、お金と、システムでしょ?
「今、原発は稼動してないから、これは、原発の電力で動いてない!」とか、そんな屁理屈はいいから!
今のまま行くと、老朽化した火力発電所が止まって、どうにもならなくなるよ!
ああ、話がずれた...。
ボクらは物質の豊かさに慣れて腑抜けになって、踏ん張る力が足りないし、我慢できる粘り強さも失ってる。
もう、戦前の日本人とは違うんだ。
今の日本人の誰が、あの時の様な苦境に耐えられる?
土建屋の仕事ですら、キツいからって若い日本人は中々入って来ないのに...。(今、もの凄〜く、人材不足なんだよ!)
自分の身体を呈してでも守りたいものがなければ、人は戦えないよ!
戦争は”命の奪い合い”ですよ!
守る者の”命の重さ”が分からない奴に、奪う相手の”命の重さ”など分かりはしない!
自分の家族すら大事にできない人に、他人の命を奪ってまで、自分の命をかけてまで、守るべきものなどないでしょう?
「戦争に行け!」って言われても、皆きっと逃げ出すさ...。
そんな論争してる暇があったら、原発何とかしようよ!
目の前に、見えない敵が確かに存在してるはずだよ!
2020年の東京五輪開催に浮かれてる場合じゃ〜ないんだって!
よろず語り部 夢追人拝
2014年06月03日
「嗚呼〜、見ててドキドキする様な、真っ向勝負のバカが見ていたい!」
今日、仕事の真っ最中、携帯電話が鳴った。
東京からの電話番号(03)だった!
仕事中だし、きっと元本業関連の電話だし、その時には出なかった。
後で留守電を聞くと、随分前からお世話になっているビジネス誌の女性編集者だった。
取材で香川に行くので、撮影を頼めないか?という依頼の電話だった。
彼女と同じ会社の編集者に、ボクがカメラマンを廃業したことは伝えてあったので、既に知っていると思っていたのだが....。
仕事から帰って、山の畑のキュウリやナスに水を遣りながら、ボクは彼女に電話を折り返した。
「ご無沙汰してます!仕事のご依頼みたいですが....。知らなかった?ボク、カメラマン廃業したんだけど...。」
「えっ?そんなに才能があるのに...。」
彼女とは随分前からのお付き合いで、東京在住の頃は、沢山の会社へ社長インタビュー等にご一緒させていただいた。
彼女はボクの写真のことをかなり買ってくれてて、仕事を沢山回してくれたし、仕事の後にはよく飲んだ。
酒に酔ってもアツく仕事や、ボクの写真について語る、何ともサムライな女史だった。
期待をかけて随分可愛がって貰ったのに、ボクは直接廃業することを伝えていなかった...。
いや、彼女以外の沢山の仕事仲間、元上司、いろいろな恩人たちにも...。
「経済的に立ち行かなくなったから...。」
それが、最も分かり易い廃業の理由ではある!
でも、本当はその随分前から、ボクはず〜っと足踏みをしていた。
ボクは人を撮るのが好きで、それが得意なカメラマンだった。
風景も、旅雑誌等の取材もしていたから、仕事として一応は撮るけど...。
フリーカメラマンとしてではなく、写真家としてボクが発表した写真展のほとんどは人間を撮ったものだ!
でも...。
「人を撮ることが面白くなくなった...。」
皆、妙に小賢しくて...。
変にまとまってて...。
バカにならない(なれない?)、つまんない人たち。(失礼!)
見ていても、ちっともドキドキしない!
<補足> 皆、人にどう思われるかを意識し過ぎてか?喜怒哀楽を表情に出さず、能面顔になってしまっている様な気がしていた。笑顔もこころからではなく、愛想笑い、作り笑顔と感じることが多かった。子供すら表情が少なくなり、ハメを外さなくなり、ボクは撮ってても面白くなくなってしまった。
経済効率とか、燃費がいいとか、負けないための◯◯とか、そんなのちっとも面白くない!
「ええやん!無駄が多くても、勝っても負けても、例え失敗ばかりでも...。」
「人間なんて、生きてること自体が無意味で無駄なんだから...。効率なんか考えなさんな!やるだけやって、それで燃え尽きたらいい。後に小さな成功を、ちっぽけな功名を残そうとしなさんな!」
見ていてドキドキする、スカッとする、そんな真っ向勝負のバカを見ていたい!
小さく失敗なくまとまろうとしている、そんなつまんない奴なんて見ていたくない!
それが、ボクが写真を撮らなくなった理由の一つ。
カメラマンてねっ、幾ら自分がアーティストだと思っていても、所詮は輝く太陽を映す鏡、月にしか過ぎない!
自分が光るんじゃなくて、光ってる人や物を、反射するだけ...。
それはそれで素晴しい才能、大切な仕事だと思うし、自分もそうして20年以上生きて来た。
如何にいい光を反射できるか、如何にその光を届けることができるか、カメラマンはそこが勝負だ。
でも、太陽がいなくては、月は輝くことができない!
ボクの太陽は、その輝きを失ってしまった様だ...。
それは、もちろん”ボクにとって”であって、人々が本当に輝きを失ってしまった訳ではないのだろうけど...。
ボクは月であることを放棄して、「自分が太陽になろう!」って思ってしまったのかも知れない。
舞台の下で、輝く太陽にレンズを向けてるはずのボクは、何を勘違いしたか、ひょんなことから自ら舞台に上がってしまった。
撮る側から、撮られる方へ!
観る側から、観られる方へ!
自分で撮った写真で伝えることよりも、自分自身が直に伝える楽しみを知ってしまった。
それは、相手の息遣いが聞こえる程に近く、目に見えて、肌に感じるリアルな繋がりで、リアクションもストレートに返って来るし...。
写真展の時には味わえなかった、この感覚。
もう、ボクは月には戻れない!
誰かの光を伝える、”媒介”としての役割はもういい!
ボク自身が輝いて、直接、その光を伝えるから...。
「お前らが、ひとっちゃバカになってくれへんから、オレがバカになるしかないやろが!」
ちょっとした燃料(ビール500ミリ缶一本)で、こんなにアツく燃えられる男も、中々おもろいでっしゃろ?
よろず語り部 夢追人拝
東京からの電話番号(03)だった!
仕事中だし、きっと元本業関連の電話だし、その時には出なかった。
後で留守電を聞くと、随分前からお世話になっているビジネス誌の女性編集者だった。
取材で香川に行くので、撮影を頼めないか?という依頼の電話だった。
彼女と同じ会社の編集者に、ボクがカメラマンを廃業したことは伝えてあったので、既に知っていると思っていたのだが....。
仕事から帰って、山の畑のキュウリやナスに水を遣りながら、ボクは彼女に電話を折り返した。
「ご無沙汰してます!仕事のご依頼みたいですが....。知らなかった?ボク、カメラマン廃業したんだけど...。」
「えっ?そんなに才能があるのに...。」
彼女とは随分前からのお付き合いで、東京在住の頃は、沢山の会社へ社長インタビュー等にご一緒させていただいた。
彼女はボクの写真のことをかなり買ってくれてて、仕事を沢山回してくれたし、仕事の後にはよく飲んだ。
酒に酔ってもアツく仕事や、ボクの写真について語る、何ともサムライな女史だった。
期待をかけて随分可愛がって貰ったのに、ボクは直接廃業することを伝えていなかった...。
いや、彼女以外の沢山の仕事仲間、元上司、いろいろな恩人たちにも...。
「経済的に立ち行かなくなったから...。」
それが、最も分かり易い廃業の理由ではある!
でも、本当はその随分前から、ボクはず〜っと足踏みをしていた。
ボクは人を撮るのが好きで、それが得意なカメラマンだった。
風景も、旅雑誌等の取材もしていたから、仕事として一応は撮るけど...。
フリーカメラマンとしてではなく、写真家としてボクが発表した写真展のほとんどは人間を撮ったものだ!
でも...。
「人を撮ることが面白くなくなった...。」
皆、妙に小賢しくて...。
変にまとまってて...。
バカにならない(なれない?)、つまんない人たち。(失礼!)
見ていても、ちっともドキドキしない!
<補足> 皆、人にどう思われるかを意識し過ぎてか?喜怒哀楽を表情に出さず、能面顔になってしまっている様な気がしていた。笑顔もこころからではなく、愛想笑い、作り笑顔と感じることが多かった。子供すら表情が少なくなり、ハメを外さなくなり、ボクは撮ってても面白くなくなってしまった。
経済効率とか、燃費がいいとか、負けないための◯◯とか、そんなのちっとも面白くない!
「ええやん!無駄が多くても、勝っても負けても、例え失敗ばかりでも...。」
「人間なんて、生きてること自体が無意味で無駄なんだから...。効率なんか考えなさんな!やるだけやって、それで燃え尽きたらいい。後に小さな成功を、ちっぽけな功名を残そうとしなさんな!」
見ていてドキドキする、スカッとする、そんな真っ向勝負のバカを見ていたい!
小さく失敗なくまとまろうとしている、そんなつまんない奴なんて見ていたくない!
それが、ボクが写真を撮らなくなった理由の一つ。
カメラマンてねっ、幾ら自分がアーティストだと思っていても、所詮は輝く太陽を映す鏡、月にしか過ぎない!
自分が光るんじゃなくて、光ってる人や物を、反射するだけ...。
それはそれで素晴しい才能、大切な仕事だと思うし、自分もそうして20年以上生きて来た。
如何にいい光を反射できるか、如何にその光を届けることができるか、カメラマンはそこが勝負だ。
でも、太陽がいなくては、月は輝くことができない!
ボクの太陽は、その輝きを失ってしまった様だ...。
それは、もちろん”ボクにとって”であって、人々が本当に輝きを失ってしまった訳ではないのだろうけど...。
ボクは月であることを放棄して、「自分が太陽になろう!」って思ってしまったのかも知れない。
舞台の下で、輝く太陽にレンズを向けてるはずのボクは、何を勘違いしたか、ひょんなことから自ら舞台に上がってしまった。
撮る側から、撮られる方へ!
観る側から、観られる方へ!
自分で撮った写真で伝えることよりも、自分自身が直に伝える楽しみを知ってしまった。
それは、相手の息遣いが聞こえる程に近く、目に見えて、肌に感じるリアルな繋がりで、リアクションもストレートに返って来るし...。
写真展の時には味わえなかった、この感覚。
もう、ボクは月には戻れない!
誰かの光を伝える、”媒介”としての役割はもういい!
ボク自身が輝いて、直接、その光を伝えるから...。
「お前らが、ひとっちゃバカになってくれへんから、オレがバカになるしかないやろが!」
ちょっとした燃料(ビール500ミリ缶一本)で、こんなにアツく燃えられる男も、中々おもろいでっしゃろ?
よろず語り部 夢追人拝
2014年05月03日
「ボクの紙芝居は、黙ってお行儀よく観なくていい!」

先日の「お子様を置いてけぼり...」の記事は、思いの外反響が大きかった。
でね、その中で「紙芝居の真っ最中に邪魔をする子が...。」という書き方をしたのだけど、「では、どこが境界なんだろう?」という疑問が湧くでしょう?
ボクは、これでも結構ユルい方だと思うんだよね!
基本、他の人の妨げになっていなければ、何をしていてもOK!
よく「おはなし会」や学校での読み聞かせなどの時に、
「はい、◯列に並んで!はい、足を崩さないできちんと座る。喋らずに静かに黙って聞くこと!」
とかやってるけど...。
「ボクの紙芝居は、黙ってお行儀よく観なくていいから!」
いや、黙って観られるとむしろ、面白くなくて盛り下がっているのかと不安になるから、ちょとはリアクションをとって!(苦笑)
以前、神田小学校に「昼休み紙芝居ジャック」にお伺いした時に、
「ボクの紙芝居は寝っ転がって観てもいいよ!でも、他の読み聞かせボランティアさんの時には、ちゃんと聞いてあげてね。(笑)」
って言ったら、校長先生他、先生方皆がビックリされていた。
授業の一環としての読み聞かせなら、もちろん寝っ転がってはなしだろうけど、あくまでもお昼休みの自由参加のアトラクション。
寛いで貰っていいんです!
それにね、真剣に観始めると子供の姿勢は自ずと前のめりになるし、物語に集中すれば喋ってる子なんていなくなる。
魅せて聞かせて、黙らせた者勝ちでしょう!
この前の放課後児童クラブ巡りの時も、結構低い学年の子たちが対象だったのだけど、お話に集中してほとんど微動だにしなかった。
「今日は、熱心に黙って聞けたね〜?」
って指導員さんたちも驚いていた。
そもそも、「静かにしなさい!」って言ってる先生の声が、演じてるボクには一番耳障りなんだよね!(失礼)
演じ手に気を遣ってされているのは解るんだけど、ボクにはその必要がない!
しばらくすれば、皆お話に集中し始める。
それに、無理に感謝の言葉とかを言わすのも必要ないよ!
面白かったら自然に、「ありがとう!面白かった〜。また来てな!」って口に出るし、結構、玄関先まで見送りに来てくれる子がいるよ。
ハイタッチしに来る子もいれば、握手を求めて来る子もいる。
手紙を渡されたりね...。
子供は自分の気持ちに正直だから、自然とそうなるよね。
大人が変にコントロールしようとしなくても、伝わる時は伝わるもんだ!
ああ、舞台に立っててよかったなって、本当に嬉しくなる。
疲れなんて吹っ飛ぶよ!
ボクは、子供の笑顔に力を貰ってるんだ。
よろず語り部 夢追人拝
2014年04月30日
「お子様の置いてけぼりは、固くお断りいたします!」

*注 余りに長文なので、小さい文字にしました。読み辛くて済みません!
もうね、何度か同じ様な内容の記事を書いたはずだけど...。
ちょっと前、とあるお方から、ボクのFBの動画にコメントが入った。
「紙芝居の真っ最中に騒ぐ子供をよく、普通にスルーできるよね?」って...。(意訳であって、コメントのままではありません!)
ボクはそのコメントに、この様に返した。
『実演途中に読むのを止めて、騒いでる子を静止しようとすると、お話の流れが乱れてちゃんと聞いてる子に申し訳ないし、騒いでる子が構って貰えると思って余計に騒ぐので、無視することにしてます!相手にされないと、その内大人しくなりますから...。他の子を傷つけそうになったり、自転車や三脚を倒しそうになったら、その時は安全第一なのでそれは止めます。「子どもの攻撃は容赦なくひどい」はその通りだと思いますが、彼らには攻撃という意識も、迷惑をかけてるっていう意識もありません!「したいことを、したいタイミングでしているだけ」です。それが子供の本分だと思います。無意識の相手の悪意を疑って神経を尖らせていたら、こちらが参ってしまいます!ミニ拍子木を渡した時点でこうなるのは目に見えていましたが、それよりも、読み始めと、読み終わりに一緒に拍子木を叩く一体感を知ってしまうと...。「まあ、いいじゃん!」と思えてしまうから不思議です。 夢追人拝 追伸 まあ、幾つになっても自分自身が”少年”だからね...。』
これはボクの本心で、決していい顔をしたいが為の虚言ではない!
でも、これはあくまでも、子供への目線である。
邪魔していることを知っていながらそのまま放置している親に対しては、ボクはかなり厳しい意見を持っている。
”場”の空気が悪くなるので、実際その場で親に文句を言うことはないけれど、この際、この場でボクの意見を書かせていただこう!(他の方や、関係ないちびっ子に悪いからね...)
”親”という字は、「木の上に立って見る」と書く。(まるで金八先生の授業みたいだけど...)
まあ、「ちょっと離れたところから、何でも手出し、手助けをせずに、見守る存在」という風に解釈できる。
過保護で、過干渉が一時期問題になっていたけど、最近の親子を観察していて感じるのは、
無保護、無干渉、無関心、無愛想、無情...、と”無”のオンパレードだ!
保護者であるべき親が、我が子を保護しないで、誰が子供を守るんじゃい?
自分の子供に無関心な親が、他人の子の世話まで焼くか?焼けるか?
ボクも紙芝居のおっさんとして、多くの親子を観察して来たけれど...。
いつも哀しい気持ちにさせられる!
少なくとも、見ていようよ!
ボクが紙芝居をしているところに、子供を置き去りにすんなよ!
ボクは、紙芝居を演じるので一杯一杯で、とても全ての子の安全まで目が行き届かない!
途中で見えなくなった親を探してパニックになったり、後を追っていなくなったり、連れ去られる可能性だってある。
怪我をさせられることだって、他の子に怪我をさせる可能性だってある。
車道に出ちゃったり...。
「うわ〜、考えたくもない!」
でね、紙芝居を演ってる真っ最中に、鳴り物を叩きに来たり、他の子を押しのけて舞台の真ん前に立ちはだかったり、奇声を発したり、いろいろ邪魔して来る子も多い訳だ。
先のコメントの通り、ボクは、子供はそんなところもあると理解しているし、しょうがない場合もあるけど...。
邪魔してるのが分かっていても止めない親、もしくは最初から放ったらかしで保護監督してない親には、無性に腹が立つ訳だ!
「その場にいないなんてのは、もっての他だよ!」
でも、その子供に罪はない!
そういう問題行動を起こし勝ちな子は、絶対親に問題がある。
彼らは、親に構って貰えないストレスを溜め込んでいる!
”誰かに構われたい”オーラ全開である!
そして、その矛先は彼らを受け入れてくれそうな、例えば子育て支援センターのスタッフさんとか、面倒見の良さそうな他の子のママとか、ボクの様な存在に向き勝ちである。
これは、紙芝居のおっさんとしてだけではなく、放課後児童クラブの指導員としても体験、経験済みのことだ。
この意見には、共感できる人も多いのではないだろうか?
子供のためを思って子育てイベントに来ているのであれば、尚更そこはわきまえて欲しい!
「子供を放し飼いにしないでください!」
我が子を守り、他人に迷惑をかけない様に育てるために...。
「ちゅうか、迷惑かけているのは、保護者であるあなた自身だから!」
ボクは、子供が大好きだからこそ紙芝居演ってるの!
だから、子供を大事にしない親は好きになれない!
物ばかりを買い与えて自己満足してないで、ちゃんと保護者の責務を全うしろ!
オレは、怒ってるんだ。
よろず語り部 夢追人拝